تسجيل الدخول夢にまで見た日がついに目の前に建っている。門に掛けられている看板に頬ずりしながら撫でる。
「御神様~~あ~~ん素敵!」
周りの人に変な目で見られようが関係ない。そんなことはもう慣れっこである。
『御神音楽学校─Mアカデミー学園』
「夢かも~~~あ! 急がないと!」
──『御神音楽学校』三年間で普通高等学校同等の卒業資格が与えられる。留年制度はなく単位不備の者は即退学となる。「声楽コース、弦楽器または管楽器コース」の二種のうち選択受験。
音楽学校を卒業した者で成績優秀者はMアカデミーへの進学を許可される。
アカデミーの生徒は、プロデビューを目標とする者を対象に、御神財団より海外留学の斡旋や、資金などの援助を受けることが出来る。
──『弦楽器コース試験会場』
「桜井花音です。お願いします」
「42番ね。この札を胸につけて控え室で待つように」
「不吉な番号ね……にしても。今日で二日目よねえ。何人応募してるんだろう……5人一緒に弾くのね……」
次々と受験者が呼ばれていく。思っていたより進むのが随分と早い。5人一緒でも短めしか弾かないってことかしら?
もう直ぐ順番だわ。
緊張の為かハンカチで何度も手汗を拭く。
あと8人? え? あれ? 順番抜かされた?
あ、同じ曲を選択している人でグループを組まされているからね。
同時演奏ってことは、一緒に弾く人と合わせる感じが良いのかしら?
──ザワザワ
「え?」
「え? 何で?」
「嘘? 本物?」
「何で日本に?」
「え? 御神 貴志?」
私は、思わず声がする方向に振り向く。
嘘!? 御神様!!
え!?
えええッ?
本物?!
歩いている! 動いている!
本物だ!
私、息してる? 生きてる?
サングラスをしていても、何度も夢にまで見た御姿を、私が見間違えることはない。
紛れもなく「御神 貴志」本人である。
彼の身長、体重、足のサイズに至るまで(公表プロフィールではあるが)知り尽くしている。間違いなく彼である。
周りのザワつきに一切気にかけることはなく、サングラスをしたまま颯爽と歩き去って行かれた神は、無言で「試験会場」へ入って行った。
え?
嘘?
御神様の前で弾けるの??
御神様が聴いてくれるの?!
今日で死んでも良いです!
冥土の土産に宝物にします!
◇
「珍しいわね。貴方がわざわざこんな学生相手の試験を見に来るだなんて?」
「ん? 緊張で泣き出す瞬間が最高だろ?」
「相変わらずの悪趣味ね?」
「次が最後か? 何だよ。全員バッハか、ドヴォルザークかよ」
「そりゃそうでしょう。どれ選んでも同じ条件なのだから。あ、この次パガニーニ来るわよ?」
「物好きがいたものだ」
サングラスを外すこともなく、長い脚を組み直し少し退屈そうにドアの方を見ていた。
高級スーツや高級ワンピースに身を包み、母親や師と共に廊下で待っている「いつもの風景」に、飽き感が否めなかったからだ。
受験者の紙がテーブルに三枚置かれているのに視線を移す。
「三人ねぇ」
「勇者に敬意を払ってあげて頂戴?」
「次のグループ入りなさい」
──「失礼します」
その声と同時に番号順に部屋に入る。
御神様の前でまさか、御神様のパガニーニを弾ける日が来るだなんて!
生きてて良かった!!
他二人が、緊張で強ばった表情をしている中、花音だけが高鳴る胸の鼓動で舞い上がっていた。
「では、はじめなさい」
三人で顔を見合わせ、スタートのタイミングを合わせる。41番さんがカウントして入る段取りにした。
出だしはちゃんと揃った! この調子で皆と合わせて!
だんだんと激しく低い地響きのような音に──
って? え?
ズレてる?
私だけ?
え? テンポが狂っている?
合わない! どうしよう!!
「ふぅん」
「貴志、あの子!」
どうしよう! みんなに合わない!!
──バンッ
げ、弦が、き、切れた。こんな大事な場面で。
落ち着け私、三弦でもカバーすれば……
「あら? 学生にしては度胸あるわねえ」
「持たないな最後まで。由紀、鍵」
「え?」
まさか自分のを貸すつもり?
──ガタン
あ、御神様が!!
やっぱりこんな下手な演奏なんて聴くに堪えないと思ったのね。
その時だった。
──バチン
二本目が切れた。
あんなに練習したのに……
私の人生最初で最後の日が終わった──
二人の綺麗な演奏を聴きながら、それでもこの場に来れたことに感謝して、私は審査をしてくれた先生方に頭を下げた。
最後まで弾けなかったことは残念だけれど、御神様に会えただけでも冥土の土産になる!
悔しい気持ちはあったが、最後まで演奏した二人に敬意を払い拍手を送る。
彼女らの後を追うように、急いで崩壊したバイオリンを片付け、出口へと向かったその時だった。
──ガチャリ
「最初から、さらってみろ」
え?
御神様?
え? これって御神様のバイオリン?
指板にMのマークが入っている。
嘘?
しかもこれって物凄いお値段とかするやつですよねえ?
「練習用のだ。そこまで高価な物ではない」
「……お借りしても?」
やったーーー!
御神様のバイオリンを貸して頂ける上に、再テストしてくださるって!
まさに神降臨!
「はじめろ」
御神様が、サングラスを外された。
ニコロ・パガニーニ作曲 無伴奏バイオリンのための24の奇想曲24番イ短調
最も美しいパガニーニの最高傑作。
──ガタン
え? 御神様?
「そこビブラート効かせすぎ! テンポ乱れてる! 違う! 弓ゆっくり溜めろ早すぎだ阿保!」
上着を脱ぎ捨て、彼女の直ぐ後ろに立ち指導し始めた。
その部屋にいた全ての者がその光景に驚きを隠せなかったが、それ以上に彼女の演奏に驚愕し口を開けたままの者もいた。
御神 貴志のパガニーニの世界が見えた瞬間だった。
彼の独特な解釈。禁忌とも言える当時センセーショナルを起こした彼のデビュー作をそのまま再現していた。
扇情的な旋律と激情が交互に繰り返され、泣き叫ぶような高音と、悪魔のような低音に部屋にいた皆は、酔いしれ圧倒されていた。
「スタッカートもっと細かくつけろ。もっと大事に音よく聴いて。そう歌えもっと」
──ジャーン
「ハァ。ハァ、ハァ。終わった。何これ! この悪魔みたいな低音と、高音の響き。音が全然違う……」
何故だか分からないが私は、涙が溢れ出していた。
震える手に力が入らず、でも大事なバイオリンを落とすことはできず、御神様にお返しするのに差し出す。
「有難うございました! 一生の思い出が出来ました!」
「お前さぁ。何処でバイオリン習った?」
「え? 独学です。あ! でもずっと御神様、あ、いえ、御神さんのCDを毎日子供の頃から聴いて、それで、えっと。バイト代貯めてやっと、先月末にアレを買いました!」
「……やっぱりな。由紀、高科呼んで来い。あとツィゴネルのスコアと」
え? 御神様が、呆れていらっしゃる? 由紀さんて確か御神様のお姉さまよねえ? この学園の学長をされている。ピアニストの御神 由紀さんよねえ?
「お前、もしかして楽譜読めないのか?」
「……すいません」
御神様?
あれ? 呆れた? お疲れのようで?
額に手を当てたまま、微動だにしなくなった御神様を窺うように見つめた。
──追試になんとかギリギリ合格出来たことで、完全に気が抜けてしまってたわ…… 次は高科先生の授業だ~~楽しみ!「失礼します~~桜井入ります」「天野先生もいるう! って? どうされたんですか? 何かお疲れのようで?」 天野先生にも会えたことは嬉しかったのだが、何だか凄く疲れた様子で、何かあったんだろうか? 心配になり近寄った。「君の鬼に言って下さい。御神先生、頭おかしいわ。やっぱり」「ぇ?」「朝っぱらからハノン1時間のあとソナチネだよ? なんで今更基礎教本を」 天野先生もだったんですね。 うん。私は悪くない。関係ない。 そして私を睨まないでください……「天野先生も一緒に練習見てくれるんですか?」 久々に二人に練習見て貰えるなんて!「違います! 一緒に練習するんです! これから!」「ぇ?」 ──ガチャッ「ごめんごめん遅くなって前のが伸びて」「よろしくお願いします。高科先生」「何言ってるの? 一緒にこれから練習だけど?」「え? あの、つかのことを伺いますが私の実技の授業では?」「黙れ」「黙らっしゃい!」「……あの、それで」「あ?」「何?」 こ、怖い。私悪くないですよねえ?「これで私、追試になるとかはないですよねえ?」「アンタの実技教科担当は悪魔先生です!」 アンタって……天野先生。 しかも悪魔先生って酷すぎる……「で、どっちからやれって?」「ホルストでお願いします」「ジュピター?」「はい」「じゃぁ始めるよ」「はい、あ! 待って! 録音させて下さい!」「さ、桜井? もしかして?」「先生が送って来いって」「……最悪」「ピアノ無しの送って下さい」「いつでもどうぞ」 桜井? こいつ腕あげた? こんなにパッセージ的確に揃えれたか? おいおい高科先生。桜井に音持って行かれてるじゃん。基礎サボってたな。 高科先生とこうしてバイオリンを一緒に弾ける日が来るだなんて。思っても見なかった! 楽しいぃいいいいい! 何これ、こんなに楽しいなんて。 ここは確かもっと豊かに先生が奏でていたような。 そして次は、そうそう高音部を伸び伸びと。 静かな眠りから壮大な宇宙へ。「ありがとうございました!」 楽しかったぁああ。もっとやりたい!! あれ? 高科先生? 無言で高科先生が部屋を出て行った。 今日は
東の空が紺紫から段々と薄紅色に染まっていき、辺り一帯の空気がツンと頬を突き刺すような寒さの中、鳥たちの動きも何だか遅く感じた。 季節の流れは早いもので、一年で一番忙しいとされる師走を迎えていた。 そんな中、一際賑やかな集団が一つあった。 朝のランニングに行こうと思って寮を出たら、門の外が騒がしかったのでよく見てみたら、見慣れた顔がチラホラと。「何ですか? 高科先生まで。それに白井さんや、皆さんまで?」「君の鬼に聞いてくれよ。さっさと行くよ。俺この後、授業あるんだから」 高科先生が私を睨む。そして幾分皆さんも、何となく私に言いたげな雰囲気である。「ぇ? 何かしました?」 昨夜、奴から届いたメール内容。『オケメン全員、花音と同じメニューこなすこと。天野以外教師含む。1年通せる自信ある奴のみ免除。日本公演分全曲を、全員3月中に入れること。帰国日決まったら連絡する』『追伸─花音に食われるなよ』「あの野郎…⋯」「ぇ??」 「もしかして、皆さん同じメニューをこれから毎日?」「これ朝、何分?」 高科先生が私の顔を睨みながら言う。 いや、私のせいじゃないですからね? 先生の指示ですよねえ? 私、悪くないですからね?「45分か5キロです」「……あのクソが」 高科せんせ?「行くぞ」 ◇「ぜぇ。はぁ。ぜぇ」「ゲホェッ。ゴホッ」「ハァハァハァッ、ハァ」「あ、あし、足ツタ、つったあ」 えっと……皆さん大丈夫ですか?「高科先生? お水持って来ます?」「お、お前平気なのか?」「あ、帰ってきて直ぐは流石に三日ぐらいはしんどかったですよ? あ、夕方は何時集合にします? 夕方軽いですよ? 30分か4キロでいいから」「………」「あ! 早く行かないと朝ご飯の時間! いっぱいになっちゃう! 8時にパッセージ1時間一緒にしましょうね? では皆さんお先に~~」 45分全力で走った直ぐ後、元気に走り去って行った少女の背が、既に小さくなっている姿に高科は驚愕した。「……悪魔の子は悪魔に育つのか?」 膝がプルプルし、未だ息が上がっている自分の姿に、学園一厳しく、そしてイケメンと言われた男は、敗北感が否めなかった。 ◇『誰にも見せるなよ。ホルストのレッスン送ってこい毎日。指示出すから。ものまねじゃなく、お前の音を待っている』 昨夜届いた宝物を
──目移りしそうなぐらい、お洒落な服が視界を占領していた。まるで私は、何処かのお姫様になったような気分になる。 そんな私に先生は笑いながらも、ほんの少しだけ時折呆れた顔を見せる。「どっちが良いですか?」「欲しいなら両方買えばいいだろ」「えぇえ〜〜勿体ないですし」「良いよ身体で払ってくれたら」「ぇ?」「阿呆そっちじゃない。ちゃんと4月までに間に合わせろよ?」「……ですよね」「あ、板に乗せられない状態と判断した場合は即刻切るから、覚えておくように」「ぇ?」 え?? 聞いていませんが? オーデション受かってもクビになるってことですか?「こっちも慈善事業じゃないんで」「う、嘘ですよねぇ?」「俺、今まで嘘ついたことないが?」「ぇ? まさかとは思いますが、もし駄目だったら先生ともお別れ?」「そういうことになるな。ハハハッ頑張りたまえ」 うそおおおぉおお! そんなあああ!! やっぱり悪魔だ…… 音楽に関して先生は一切絶対妥協しない。 一見、冗談で言っているように見えるが、先生が「音楽」で情けを掛けることは絶対にないことは分かっていた。 ◇ み、御、神 た、貴志に荷物持ちをさせている私って…… 結局あれから他にも何着か買って頂き、その荷物を全て持ってくれる神。「せ、せんせい。これ見たい……」 沢山の化粧品が並んでいる店が飛び込んで来て、思わず言葉にしていた。「如何ですか? 良ければ試してみられますか?」 ぇ? 先生の顔を見る。 何も言わないけれど、その顔は肯定と取って良いと。 最近は何となくわかるようになった。 先生は「駄目」な時だけは言葉でちゃんと「駄目」と拒否するが、それ以外は本意ではなくても結局は許してくれる。 はじめて見る大人の世界に入り込んだような感覚。 キラキラ輝く鏡の中に映る自分の姿が、魔法の粉が降り注ぐことによって、全く違う私が出来上がる。「如何ですか?」 魔法を掛けてくれたお姉さんがにっこり微笑む。「あ、有り難う御座います……」 パウダールームを後にして、サロンで待っていた先生のもとにゆっくり歩み寄る。「先生? どうですか?」 頭の先からゆっくり視線が下りて行く。「如何ですか? 少し大人な感じに仕上げてみました」 店員さんが先生に微笑むのを見て、私は少しだけ恥ずかしくなる。
──これ制服で行かないほうがいいわよねえ? 寮に急いで戻った私は、数少ない外出着の中から一番マシなのを手に取り、着替える。 うん。冬服買おう。 ヤバッ! 時間! 急いで靴に履き替え、指定場所に向かう。 こんな昼間に、しかも今日は平日。 皆はまだ授業を受けているのに。 オーデションを受ける人は、今日は公休日となっていた。 午後からオリエンテーションがある予定が…… 先生の説明が3分で終わってしまったからだ。 高科先生がちょっと気の毒にも…… 先生、早っ!「お邪魔します?」「おめでとう」 助手席に座った途端。 え? ちょ、せ、せん、せい。 それは、いきなりの出来事だった。 こ、こんなところで…… もし誰かに見られたら。 ん─ 塞がれた唇に割って入るように奥まで先生が激しくなる。 頭の中が真っ白になりかけた時、優しく耳元で囁いた。「もう逃げるなよ」「……はい」 いきなりに驚いた私は俯きながら小さな声で答えた。 何も無かったような顔をして、顔色一つ変えずにサングラスを手にし、綺麗な長い指で髪を掻上げながら瞳を覆い掛ける姿は、ズルいぐらい格好良く見えた。「好き?」「……それ今更いるか?」「言って欲しいもん」「今度ベッドの中でな?」「ぇ?」「籍入れるまで待てってか?」「⋯⋯」「待ってやるよ、なら」「ぇ?」 それって⋯⋯ 今、籍いれるって言った? え? え? 本当に? え? その後のって…… 驚き過ぎて、良く聞き取れなかったけれど…… それって……「まあ、取り敢えずは卒業しなさい。今は襲わないって誓います。だから安心しろ」「襲うって……」「だから、しないって」「いや、そうじゃなくてですねぇ……」「何だよ? ちゃんと待つって言ったろ」「いや、そうじゃなくて。待たなくても良いといいますか……何と申し上げたら良いのでしょうか……」「ハハハハッ。阿呆かお前。自分から安売りする女が何処にいるんだよ。卒業するまでは抱きません」「……ごめんなさい。じゃあ卒業したら良いんですか?」 先生の顔を見る。 笑っていた先生の顔が少しだけ真面目な顔に変わる。「そこは重視してないから。焦る必要ないよ。まぁ俺が我慢出来なくなれば、分からんけどな?」 先生が? 我慢出来なくなることなんてあるの?「
ほんの少し前まで野山の木々が燃えるように赤く染まっていたのに、段々とそれも燻みはじめ、朝靄の山頂には雲海の絨毯に、日輪の光が金色の帯となり神々しく荘厳な時を迎えていた。「神が帰って来る!!」 まさに神降臨に相応しい光景だった。 あれから三日。やれることはやった。 今日で私の運命が決まる。 もし落ちたら…… 永遠の別れに? いやぁあああぁああぁ゙あ゙ああ! そんなの絶対いやあああああ! 悔いのない演奏をしてそれでも駄目なら仕方がない。 私は金のピアスをする。 一度は捨てようとした、大事なお守り。 もう二度とそんなことはしない。 校内では付けないようにしていたが、どうしても今日はこのお守りに願いたかったからだ。 思えばここまで色々あった。 なんの取り柄もない私が、今やこうして世界の御神 貴志の前で、そして彼のバイオリンで彼の十八番を披露する。 それだけでも、以前の私の生活からは考えられないことだった。 ましてや先生と一緒にオケに参加出来るかもしれない千載一遇の機会。 迷ったり、逃げたり、悩んだりとかとんでもないわ! 元々何も無かったんだもの。 失うものなんて。 沢山貰ったから怖くなっただけ。その幸せを手放すのが。 先生が言った「最高だった」あの言葉を信じよう。 私のカプリースで挑む。 ◇ 試験会場へ向かう。 思ったより多いわねぇ。アカデミーの研究生ばかりかと思ったら。同じバイオリン科の子の姿をチラホラ見かけた。 受付に行き番号札を貰う。「52番」 50人以上受けるってことかしら? 先生中にいるのかなあ? うはっ、G線10人一度に弾くの? ゾロゾロと会場に入って行く列をぼんやり眺めていると、恭子さんと目があった。「こんにちは」「ビオラも同じ時間なんですねえ?」「そうみたいねぇ? 何番?」「52です」「と言うことは52人受けるってことかしらね?」 あ、最後か私…… なんか寂しい。「次のグループ30~40番まで」 家路も10人か……「じゃぁお先に。お互い頑張りましょうね」「あ、はい」 今頃になって緊張してきた…… ヤバイ…… 力が入り強張る手を握りながら、出来るだけ無の世界へ集中する。 先生……「52番中へ」「52番さん? いないの?」「52番の人中へ」 ハッ!「す、すい
久しぶりに帰って来た自分の部屋を見渡す。 何も変わっていない。 でも一つだけ以前と明らかに変わったことがある。 今も残る先生の吐息と、仄かに香るタバコの匂いとムスクの薫りが入り混じった大人の香り。 頬が熱くなるのを感じ、洗面所に向かう。 う、嘘…… 首筋に残る先生が残した印。 恥ずかしさより嬉しさが勝っていた。 テーブルに置いた封筒を眺める。 勉強しなきゃ……「む、無理だ……わかんなあああい! 数学無理! 英語むりいい!!」 最悪だ…… ◇「嘘……あのまま寝てしまった。最悪!」 自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。 久しぶりにジャージに急いで着替えた。 今まで何ヶ月もサボっていたカリキュラムをまた一から頑張らないと……「ぜぇ。はぁ、ぜぇハァ。し、死ねる……よく私これやってたわね……」 膝がプルプル震える感覚。 懐かしいようなこの感覚に、自然と私は笑っていた。 もう逃げない。 絶対に。 ◇「お、おはよぅござぃますぅ?」 職員室に向かい、高科先生か天野先生を探す。「高科先生ならご自分の部屋にいらしたわよ?」「有難う御座います!」 確か、声楽科の先生よねえ? 何で私のことが分かったんだろう? まぁいっか。「おはよぅございます?」 ──ガラガラ「おかえり」 高科先生!「ごめんなさい! 先生!」 思わず走って先生に飛びつこうとした瞬間、声がした。「ごめんなさいじゃないわ! どれだけ心配したと思ってるんだよ!」「天野……無事帰って来たんだから、もう良いじゃないか。ちゃんと反省してるんだろ? 桜井も?」「いえ、天野先生の言う通りです。本当にすいませんでした」 二人に私は深々と頭を下げた。 こんなにも私のことを心配してくれた人がいたと言うのに…… 本当に自分は酷いことをしたんだと、改めて実感した。「あの……本当に厚かましい話しなんですが……天野先生って数学得意だったりします?」「は?」「……やっぱり無理ですよねぇ」 やっぱり音楽の先生だしなぁ。「誰が無理って言った?」「え?」「桜井知らなかったのか? 天野は元々国立医学部だよ」「ぇえええええええええ?」「お前驚き過ぎだろう……」「何でそんな御方が音楽に? ジュリアノですよねえ?」「ずっと本当は音大に行きたかったのに、親の言うことを聞
──静まり返る部屋の中、何事もなかったかのように御神様が言い放つ。「高科、ツィゴネルワイゼンで春コンに一人追加だ。一ヶ月でこの通りに完成させろ。出来なければ退学だ」「え? 彼女を? いきなり? しかも最高難易度だよ?」 高科は驚いた顔で、彼女と御神の顔を交互で見る。「春コン?」 何ですか? それ? 一ヶ月で先程の神と同じ演奏? いや絶対無理でしょう? ド素人凡人ですよ?「高科こいつ譜読み出来ない。持ち方から姿勢、ボーイング全ての基礎を二週間で叩き込め。楽譜通り正確に仕上げた後に、今のを再現させろ」「は?」「え?」 部屋の皆が静まり返った。「毎日レッスン風景を動画で俺
今日も朝からおもちゃ箱の声や、キラキラ光るビー玉のような瞳達に私は囲まれて、その元気をもらっていた。「花音ちゃん。もう一回弾いてよ~」「花音ちゃん。キラキラ星弾いて~」「それさっきアンタ言ったでしょ」「ケンカしないでね? みんなで一緒に歌いましょう?」「キラキラひぃかぁる~」 子供達やご老人達の前でバイオリンを弾く機会に恵まれたことで、私は毎日を楽しく過ごせていた。 あの日、偶然見つけた喫茶店が運命の出会いだった。 着の身着のまま飛び出してしまった私は、お腹が空き良い匂いがする喫茶店に吸い込まれるように入っていた。 一日だけのつもりが、既にもう何日もご夫婦の好意に甘えてし
──神が大きく溜息を吐いた後、御神様が私の顔を見て笑った。 神が笑った姿を生で見れた! ヤバイ倒れそうです!「天野。ピアノ科初等部に一人追加。譜読み中心に基礎を一から教えてやってくれ」「え? バイオリン科でなくてですか? 御神先生?」「そっちは俺がやる」 審査委員席に座っていた天野を含め、そこにいた全員が驚きの表情を隠せなかった。 世界中を飛び回っている超売れっ子指揮者が、一介の音楽学校の生徒を教える? しかもド素人を。 確かに先程の演奏には驚かされたが、弓使いは無茶苦茶。姿勢も酷い。逆によくアレでパガニーニを再現出来たこと自体が不思議なぐらいだ。 有り得ないだろ。そんなの。
朝ご飯を食べ終え学校に行く用意をしていたら、テレビから流れるニュースの音に立ち止まる。『Takashi Mikami──世界を圧巻したあの御神の凱旋帰国決定!』「御神さん、一言お願いします!」「久しぶりの緊急帰国になりますが、暫く日本で活動されるのですか?」「今回、御神堂での凱旋公演とのことですが、お父様の御神 幸造氏はいらっしゃる予定ですか?」 空港ロビーに集まる報道陣のフラッシュの中、明るめの茶色い長髪が光りを浴び金色に輝く中、サングラスを外すことなく無言で人混みを掻き分けるように足早に去っていたが、記者の最後の質問に、サングラス越しにも分かるぐらい一瞬怪訝な顔を浮かべた。







